境内にある大きな椋の木に寄り添うように石碑がたってます
境内① 境内②
一般にはあまり知られてない城跡です
かかわっていました
1467年(応仁元)、応仁の乱勃発
京都ではじまった戦火は地方にも飛び火し、全国的に争いが巻き起こりました
応仁の乱が発生した原因には複数の要因があるが、
そのひとつに畠山家の家督争いがあげられる
~略~
畠山家当主・畠山 持国(もちくに)の弟・持豊の子『畠山 政長』VS
畠山 義就の子・『畠山 義豊』
突如、四万にのぼる義豊方の大軍が正覚寺城を急襲
城に詰めていた政長の兵はわずか二千あまり
落城の間際、十代将軍・足利義稙(よしたね)を十三歳の息子に託して落ち延びさせる
城に残った政長は数人の家臣と最後の杯をかわしたあと自害
正覚寺城跡から東へ歩いて10分くらいの場所に、政長の墓がある
政長の墓
訪問日 2011・8